『水の駅』ポーランド公演アフタートーク・挿入歌
10月7日の公演は、『水の駅』の二日目にして最後の舞台であり、同時にフェスティヴァル最後の公演でもあった。19時に開演予定だったが、挨拶もあり、10分以上おくれて始まった。終演は22:30を超え、アフタートークが始まった頃、時刻はすでに23時近かった。
アフタートークの参加者は、ヴィトカツィの芝居『狂人と尼僧』に出演するために来日したこともある(1992年)、プロデューサー・俳優で2016年からはクラクフ市のスウォヴァツキ劇場総監督を務めるクシシュトフ・グウホフスキ(写真で青い服)、演出家のキム・セイル、フェスティヴァルのアンバサダー関口時正(チェックのシャツ)、フェスティヴァルの総監督ニコデム・カロラク(臙脂色の服)の四人だったが、客席にいた招待客の演劇翻訳家・編集者マウゴジャータ・セミルにも特に発言をお願いした。当日は通訳に問題があって、質疑応答がまるで噛み合っていなかったが、それぞれの発言自体には、闇に葬ってしまうにはもったいないものがある――そう判断して、録音を起こしてみた。
はじめに関口が、特設サイト《水の駅オンライン》の「キム・セイルの『水の駅』をポーランドで観る」(https://www.mizunoeki.online/?page_id=834 )で書いたような、太田省吾とポーランドのつながりについて簡単に説明したのち、マイクをクシシュトフ・グウホフスキに渡し、公演の感想をたずねた。全体で45分以上続いた議論のうち通訳部分を除けば参加者と客席からの発言は20~30分だろうが、これはあくまでその一部に過ぎない。
以下、10月7日のアフタートークをかなり端折って紹介する。
関口時正
クシシュトフ・グウホフスキ(Krzysztof Głuchowski)――いちばん奇妙なのは――役者たちはふつう、ほんの一行でもいいから、なるべく多くのテクストを獲得しようと、互いに競い合うものです。彼らは誰でも、できる限りたくさんの台詞を舞台の上で言いたい、ところがここでは言葉がひとことも発せられない。驚くべきことじゃないですか。これを観ながら、そもそも演劇における時間とは何なのか、ということを私は真剣に考えはじめましたね。普通であれば流れているもの、それがわれわれの実生活では時間です。たとえば水とか音楽とか。それがこの劇では完全に停止しているというパラドックス。それはいわば「フレーム」の中に閉じ込められ、私の耳に聞こえてはいるにもかかわらず、それは基本的に静寂の中で止められている。ここでは時間が止まっている。その周囲ではすべてのものが動いている。一方で水は止まっている。そういうパラドックス。同様に、音楽も止まっている。ある一点で円環を描くよう仕向けられた、ずっと同じ断片が反復されるのを私たちの耳は聞いている。そのシチュエーションはせいぜい三分間しか続かない。そしてそれが続いてゆく。それとも本当は続いていないのか。この瞬間、いったい「続く」とはどういうことなのかという疑問が生まれ、私には答えられない。お手上げです。この問題を、私はこれからずっと自分の裡に抱えてゆくことになるでしょう。私は白紙の観客であろうと努める、つまり、舞台上に見えるものすべてを信じ、その舞台が私にもたらすものを全面的に信頼するということです。だからこそ、時間とは何なのか、そもそもそれは舞台の上に存在するのか、それとも、これまで私たちが思っていたように、それは単に第四の次元に過ぎないのか――私は本当に真剣に考えてみようと思うのです。
ニコデム・カロラク(Nikodem Karolak)――ふたつ質問があります。まずキム・セイルさんに質問です。日本では60年代から80年代にかけて、新劇に対抗して「見世物の復権」というスローガンを掲げたアングラ演劇が主流でしたが、現代において演劇を作っているキム・セイルさんにとって、この「見世物の復権」という言葉はどのように響いているのでしょうか? 二つめの質問ですが、関口先生はイェジー・グロトフスキの名前を出されました。太田省吾の場合はタデウシュ・カントルの影響が否めないと思います。日本現代演劇におけるカントルの影響について、もし一言、キム・セイルさんだけでなく、関口先生からもコメントをいただければと思います。
キム・セイル――面白く答えます。僕は韓国人です。2003年に日本に来て、日本で演劇活動をしています。僕自身は、世阿弥の演技論に魅了されて勉強しました。その研究を基盤にした演劇をめざし、作品を作っています。人によって判断は違うと思いますが、韓国に比べて、日本の演劇では、伝統と現代が断絶していると思います。僕のような韓国人が、〔つまりむしろ外国人が〕日本の能をベースにした演劇を作ろうとすることで、その断絶を乗り越え、伝統と現代をつなげようとしていると見ている人も多いようです。一方で、20年間見てきた僕の、あくまで印象ではありますが、アングラ演劇でも、たとえば唐十郎の舞台には歌舞伎が受け継がれているように感じられるし、太田省吾さんは実際に能楽堂で上演したこともあるし、伝統的なものを継承しているのだなと実感しています。それでも韓国に比べれば、伝統とのつながりは薄いのではないでしょうか。
お話の件に戻ると、確かに日本でもヤン・コットとかカントルのことを知っている人はいますが、それはごく一部の人に限られているような気がします。一般の演劇に影響があったかと言えば、なかったと言っても過言ではないと思います。
関口時正――今日の客席には、40年前の『水の駅』をご覧になった方がいらしていることを僕は知っています。マウゴジャータ・セミルさん、この新しい『水の駅』をどうごらんになりましたか?
マウゴジャータ・セミル(Małgorzata Semil)――40年前に観たと本当は白状したくはありませんが(笑)、仕方ありません‥‥ 心の底から感嘆しつつ拝見しました。元のヴァージョンを観た時より、はるかに強烈な印象が私には残されています。いくつかの場景は、40年前当時をそのまま記憶している私にとっては、それらが文字通り再現されていたような気がしました。〔水の〕駅を中央に配した、舞台装置も昔のものそっくりですが、もちろん、ユダヤ劇場での空間はまったく違う構成でした。
大きな驚きをもって私が認識したのは、文章として書かれていないドラマトゥルギーというものが存在し得るということです。グウホフスキ監督がおっしゃったように、役者は言葉を求めて競い合う。ところが、言葉のまったくない文学的形態というべきものが、言葉無しに完全な形で創造されたドラマトゥルギーというものが、ここにはある。演出家のキム・セイルさんは、その何ものかをこれほど精密に、まったく別の場所で、まったく別の時代に、まったく別の役者たちとともに再現し得たということに、私は驚愕しています。もっとも、私はある似たような経験をしたことも思い出しました。ご存じかどうかわかりませんが、アルヴィス・ヘルマニス(Alvis Hermanis)という、ラトヴィアの素晴らしい演劇人がいます。私は彼とともに長年一緒に仕事をしていたので、よく知っているのですが、このヘルマニスもまた、言葉がまったく無いスペクタクルをいくつか作っているのです。彼の場合も、いったいこのテクストは誰が書いたのかという疑問が浮かぶのですが、実際のところ、テクストはないにもかかわらず、戯曲が成立していたのです。今回、まさに同じようなものを眼前にしている、という印象をいだかざるを得ませんでした。文章による戯曲はないにもかかわらず、いわば反復可能なドラマトゥルギーとでも言うべきものが存在する‥‥ これはよほど例外的なことだと思います。私自身が翻訳家であり、言葉というものに慣れ親しんでいるからこそ猶のことそう思うのです。
これがひとつ。さしあたりの感想です。とても感動しました。感動すると同時に、まるで展覧会を見ているような感覚を何度か味わいました。オランダ絵画を眺めているような気が何度かしたのです。
もちろん観る者は、ここには何が書き込まれているのか、登場人物たちの間には、どんな感情、どんな情動、どんなイメージあるいは関係があるのか、推しはかろうとして苦心します。長い時間を隔てて、私自身が昔観た時の印象と今夜の印象とを比べるならば、人物たちの間の情動は、前回よりも、より明瞭に書き込まれているような気がします。それらの情動に、よりくっきりとした輪郭が与えられているような気がするのです。もちろん記憶は信頼できません。多くのことを記憶は消してしまうから。〔略〕
クシシュトフ・グウホフスキ――ひとつ演出家にお尋ねしたいことがあります。ずっと気になっていることがあるのです。あなたが俳優たちと仕事をする時、どちらを先にしますか――時間軸に沿って決められた振り付け上の特定の動きという課題か、それともテーマ、俳優がみずから内部に抱いているテーマか? 何から始めますか? というのも、今日私が目にしたある状況で――皆さんも目撃したかどうかわからないけれども――一匹の蠅のせいで、ひとりの俳優がそれまでのモードから無理やり放り出される‥‥ところが、まるで深いところから再びテーマが戻ってきたかのように、振り付け上の動きを俳優に強制し、次の瞬間にはその俳優は理想的に音楽的な振る舞いをしている。何とものっぴきならない事件です。こんなことが劇の中で起こるのか? 私は仰天しました。まるで誰かが煙草を一本吸うあいだに時間としては10年経ってしまうような‥‥たとえばの話。だから私は伺いたい、あなたは何から始めるのか? テーマからか? 俳優たちはテーマを抱えて仕事をするのか、それとも演ずべき振り付け上の動きとしての課題を与えられているのか? 私はそのことに非常に興味があるのです。
キム・セイル――‥‥ハハハ、難しい質問ですね。僕自身俳優なのですが、演技トレーナーとして俳優に「訓練」というものをさせています。どちらかというと、テーマもしくは内容に従ったものを俳優にさせる、あるいは俳優の体を通して表すというやり方よりは、俳優の体を通じて、通して、そのテーマにつながるものを探すというやり方ですね。要するに、形式から内容にアプローチするのが主です。
(キム・セイル、立ち上がって客席の方に近づく。最前列にいた観客の一人の女性に「手伝っていただきたい」と頼み、極力ゆっくり立ち上がり、極力ゆっくり自分の方に歩いてくるよう指示する。女性が二分間ほどかけてそばまで来たところでキム氏、その体を迎えるかのように受け止める。会場から拍手)
キム・セイル――日常があります。日常的な時間が流れていたところ、私が彼女にいきなり「動かないで」と言います。そして他の皆さんが彼女を見ます。すると彼女の時間は日常から非日常へと変わる。日常でありながら非日常、非日常でありながら日常という状態が発生します。そして、ゆっくり動くことによって、日常に流れている時間と違う時間軸が生まれる。見ている皆さんは彼女のその時間軸を共有することになる。訓練された者であれば、もっと遅く歩けるでしょう。「演劇性」とは、日常から非日常を分け、その時間と空間を観客と共有することにあると僕は思っています。その考え方と訓練法が源泉です。〔略〕私たちの劇団は、これを屋外でもやっています。劇場は小さな「現実」ですが、屋外の大きな「現実」というなかで。
観客A――先ほどの方が「オランダ絵画」とおっしゃていましたが、まさにその通りで、私はこの舞台に、ピーテル・ブリューゲルを見ていました。『バベルの塔』‥‥暖色づかい‥‥集団の場面などは、人物たちの感情表現も含めてまさにブリューゲルの絵そっくりでした。でもそれはあくまでヨーロッパ人が自分のフィルターを通して見るからですが、はたしてこの絵画的な印象は何に由来するのか、創作者としての皆さんはこの中に何を見ているのか、私にはとても興味があります。〔略〕
きっと記憶に残るに違いない舞台を観る機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。私も数多くの舞台を観てきましたが、これは間違いなく、私がこれまで観たものの中でも最良の舞台の一つでした。ありがとう!
観客B――舞台装置についてお尋ねします。この瓦礫の山は何かのメタファーでしょうか? 文化の? それとも自然の? それから、そこに転がっている、明らかにもうその機能性を失っていると見える品物の数々ですが、あれは日本から持ってきたものですか、それともポーランド製ですか?(笑)
キム・セイル――この作品を作る上で、もっとも念頭に置いてきた単語は「難民」です。自分の意志ではなく国から、故郷から追い出された、自分を歓迎してくれる所もなく、ただただ、ひたすらどこかに向かって歩いてゆかなければならない存在。もちろん、この廃墟のようなイメージは台本に指定されています。これは〔ここポーランドの〕ゴミ捨て場から拾ってきたものですが、日本でも同じことをします。一回捨てられた物が、ここへ持ち込まれて生命を与えられ、復活しましたが、明日になると、また捨てられるでしょう。故郷から追い出された人たちがここまで歩いてきて、生命の源である水をちょっと飲んで、そしてまた歩いてゆく。それはこのゴミの存在と非常に重なると、僕は思っています。それが人生だと思います。
(アフタートーク終了の言葉。拍手)
2022年10月6日、初日公演後のアフタートークはなかったが、主催者側がこの日に招待した観客の一人、カタジナ・ノヴァクから電子メールで感想が寄せられているので、紹介する。ノヴァクは、ポーランド南部の古都クラクフ市にある「日本美術・技術博物館Manggha」の館長(公演当時は副館長)。この博物館は、映画監督であると同時に演劇の演出家でもあったアンジェイ・ヴァイダが1987年、稲盛財団の「京都賞」映画・演劇分野初の受賞者として獲得した賞金をもとでに創設したものだが、現在は、ポーランド政府(文化・国民遺産省)管掌の独立文化法人で、公式サイトの日本語ページはhttps://manggha.pl/jp 。
カタジナ・ノヴァク Katarzyna Nowak
作品は強烈な印象を私に残した。
その中には多くの物語が、個々の場景についての多くの解釈があるとしても、もっとも重要なのは実存的な苦痛であり、私たちを恐怖させるなにものかの経験だ。その恐怖は私たちに歩きつづけることを強い、どこかへと向かい、逃げることを強いる。
しかしそれだけだろうか? どこからとも知れぬ方からやって来て、水の流れ落ちる蛇口のそばで立ち止まり、渇きを――普通に喉が渇くという生理的な渇きだけではなく、情動の渇きを満たし(愛情表現、セックスのみごとなシーン)、立ち去る人々。彼らが向かうその先に、私たちの苦痛を和らげる、よりよい何ものかが見つかるのだろうか? できることなら私はそう信じたい。それが希望を与える以上。
劇は、冒頭から、演者たちと観客を強く結びつける――言葉の欠如はまったく障碍にならないどころか、むしろ逆だ――言葉があったら、それは邪魔になるか、補うか、説明し尽くしてしまうだろう。その必要はない。絶え間なく構築される緊張。次はどんな人物が登場するのかと私たちが待ち受ける中、やって来て、到着した彼らは、何かに怯えている。彼らは私たち観客の頭上を、彼方を見やる――脅威はその方角にあるのだ。その何ものかに繋がる、何らかのトラウマ、痛み、叫び、不安。それが何であるか、私たちにはわからない。しかしそれは確実にある。そして私たちを戦慄させる。
現在、私たちはそれをウクライナの戦争、その避難者たちと結びつけることはできるだろうが、この作品が包含する次元は、それより遥かに普遍的だ――それは私たち自身の恐怖なのかもしれない、逃げよと私たちに命じる何か――自分自身から、家庭から、親友から、脅威、病、あるいは抑鬱となり得る何かから。
意図的に演出されたものかどうかはわからないが、順番に登場してくる人物たちは――私が勝手に番人と名づけた、コップを手にする少女とごみの山の男を除いて――次第に身なりが良くなり、より上等で、傷みのより少ない服を着て、よりエレガントな荷物を手にしている。なぜだろうか? 見当違いかもしれない。
旅行者の出現と、コラ・ヤツコフスカの曲を流すアイディアは、興味深い趣向だった――私はここで初めて一息ついた。スペクタクルの始めから構築されていた緊張はすでに頂点に達していた――私なら、この時間を能楽の間(あい)狂言になぞらえるだろう――ヒット曲の挿入は、持続する緊張を少しだけ緩めた。この遊びは成功だった。
しかも歌詞の中で繰り返されていたのは「メタモルフォーゼ〔変身〕」という言葉だった。メタモルフォーゼを創造するのは人間なのだ――だがこの場合、そこに意味はあったのか? あったと、私は信じたい。
水、水、水、流れ落ちる水。神経を逆なで、苛立たしく、鬱陶しい水音。次の登場人物が蛇口に近寄り、一瞬でも水のしたたりがやむ瞬間を、私は待った。ところがやがて水音は気にならなくなっていった。それは私自身の体験に変わった。私もまた、自分の渇きを癒やすために、水に近づいていったのだ。
深く集中し没入する俳優たち、驚異的な身体能力をもち、個性や風貌の点でも、よく役に見合った俳優たちの演技に私は魅了された。
そしてそれは、決して長すぎるスペクタクルではなかった。
恐怖を構築するにふさわしい舞台装置。使い捨てられた古い品物たちは、うずたかく積まれ、場を圧倒していた。それはそれは凄まじく威圧した。
『水の駅』ポーランド公演第8場挿入歌(ラジカセ再生)
曲名:Szare miraże(灰色の蜃気楼)https://youtu.be/2gONxaO72Qo
作曲:Marek Jackowski(マレク・ヤツコフスキ)
作詞:Kora Jackowska(コラ・ヤツコフスカ)
演奏者:Maanam (マアナム。1975~2008年代に活動したポーランドのロックバンド)
発表年:1980年(シングル盤A面)
演奏時間:3分32秒
歌詞和訳(関口時正):
誰でもない平凡な人間だからこそ
あんたは誰とでもおしゃべりできる
平凡な人間、平凡な人間の
秘密がいっぱい、豊かな生活
ひかえめな言葉、顔にほほえみ
あんまり喋らなくていい、平凡な人間さん
無名だけれど、そのままでいい
平凡な秘密はわたしのために取っとて
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ
あんたが毎朝何を食べるか
人と愛し合うのは一週間に
七回、それとも五回?
それは秘密のままでいい
何千もの平凡な家にまぎれるあんたの家
平凡なドア、平凡なベランダ
もしも平凡な眠りが苦しくなったら
わたしの平凡な家のドアをノックして
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ
誰でもない平凡な人間だからこそ
あんたは誰とでもおしゃべりできる
平凡な人間、平凡な人間の
秘密がいっぱい、豊かな生活
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
何万もの顔、顔、顔、何千もの蜃気楼
メタモルフォーゼができるのは人間だけ
メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ、メタモルフォーゼ