キム・セイルの『水の駅』をポーランドで観る

関口時正
2022 InlanDimensions国際藝術祭アンバサダー

「アート・センター・ピェカルニャ〔=ベーカリー〕」

40年の時を経て

「圧倒されました。衝撃のあまり私は痺れています。たぶん前回よりもいい」

――2時間40分の無言劇を、最前列中央に座って観ていた彼女は、カーテンコールが終わり、挨拶するために歩み寄った私にそう言った。彼女は本当に感動していた。「たぶん」という留保をつけたのは、「前回」からほぼ40年という長い歳月が経っていたからだろう。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 マウゴジャータ・セミル(Małgorzata Semil)は、ポーランドでも老舗の演劇雑誌Dialogの編集者で、英語で書かれた戯曲の翻訳家でもある。1983年5月、太田省吾と劇団「転形劇場」は海外巡業に出たが、太田は自作『水の駅』の海外初演にワルシャワを選んだ。セミルは、ユダヤ劇場で行われたその公演を観た時の記憶を保っていた。それがいかに痛烈な体験だったかということについて、以前から私は彼女の物語を聞いて知っていた。1983年、自分は太田省吾のファンになったと彼女は言っていた。だからこそ、今回はるばるワルシャワから観に来てくれた彼女の感想をまっさきに聞きたかった。40年を隔て、二つの公演の双方を見た、それも演劇の専門家として何百もの舞台を見てきたはずの彼女の証言は重い。

ヴロツワフの町で

 香港の演劇集団「進念二十面體」が舞台『中断された夢』やシンポジウム、ワークショップを展開し、日本からは音楽家集団「神楽無双」が演奏し、演劇では金守珍(キム・スジン)の「新宿梁山泊」が『恭しい娼婦』で、平田オリザの「青年団」が『ソウル市民』で、三浦基の劇団「地点」が『ギャンブラー』で参加した「InlanDimensions国際藝術祭」は、ポーランド各地で9月16日から続いていた。その最後を飾り、10月6日と7日の2夜、金世一(キム・セイル)演出の太田省吾作『水の駅』がヴロツワフ市で上演された。アートマネージメントセンター福岡と劇団「世amI」の共同事業として昨年9月に「ももちパレスホール」で上演され、好評を博した作品である。今回の舞台はグロトフスキ・インスティテュートの管理する多目的空間「ピェカルニャPiekarnia」だった。

 ヴロツワフ(Wrocław)は、ワルシャワ、クラクフに次ぐ大都市であり、日本の演劇界でも知られる伝説的演出家イェジー・グロトフスキ(Jerzy Grotowski, 1933-99)が拠点を置いていた「演劇の町」なのだが、実は太田省吾にとっても第二の出発点となった町だった。

 1975年10月19日、転形劇場初の海外公演となったポーランド巡業をここヴロツワフで始めた太田省吾は、のちに「このポーランド公演で得たことから私の演劇が始まったように思える。遅いテンポと沈黙による表現も、ヴロツワフの劇場の袖で理解したことから考えはじめ、進めた」と書いている(「ポーランドへの演劇の旅」1999年)。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 ヴロツワフで3公演をしてクラクフに移動した転形劇場は、クラクフでも3回の公演をした。私は当時クラクフに住んでいたが、残念ながらその舞台を見ていない。そういうものが来ることすら知らなかった。留学を始めてちょうど一年たったところだった。太田省吾が人づてに私のことを知って訪ねてきたのは、すべての公演が終わり、翌日には次の町ポズナンに移ろうという10月31日――万聖節の前夜だった。劇団員の一人が体調を崩し、クラクフの大学病院に入院したのだが、劇団としては巡業を続けざるを得ないので、ここに残してゆくその人の今後の世話を頼めないだろうか、という依頼だった。もちろん私はそれを引き受けた。そんな特殊な状況で私たちは知り合ったのだったが、彼が亡くなってもう15年にもなる。

 日本と韓国との共同制作ともいうべき舞台が、原作者にも作品にもゆかりあるポーランドの地で実現し、フェスティヴァル全体の藝術監督ニコデム・カロラク(Nikodem Karolak)が「今年最大の収穫」と評していたことはここに書きとめておきたい。

キム・セイルの『水の駅』

 2019年4月8日~13日に釜山市民センターで初演された際に2回、去年の9月に福岡の「ももちパレス」で2回、今度のヴロツワフを含めて都合6回、私はキム・セイルの『水の駅』を観たことになるが、そのたびに太田省吾が遺した作品の構造の強靭さと完璧さ、そしてキム・セイルの仕事に感じ入ってきた。パンデミックや日韓間査証復活のせいもあり、釜山、福岡、ヴロツワフと、それぞれ出演者も技術スタッフも異なった。釜山では出演した韓国人俳優の数が日本人の倍近くいたのが、福岡では、韓国人が渡航できず、日本人だけで演じた。ポーランドでもキャストが福岡とは違い、技術スタッフの2人は韓国から別の飛行機で来た。そんな異例の状況が続く3年半、太田省吾+キム・セイルが創る舞台の力は揺るがなかった。

 ヴロツワフ市を流れるオドラ河の畔に20世紀初頭、1901年に建てられた軍用製麺麭所が欧州連合の補助金も得て改築され、生まれ変わったのはごく最近らしく、煉瓦の外壁は残しつつ、ガラスを多用し、近代的な設備を施した建物は「アート・センター・ピェカルニャ〔=ベーカリー〕」と呼ばれるが、中には15戸の住宅、企業のオフィス、画家のアトリエや映画スタジオも入っている。中でも最大のテナントである市立グロトフスキ・インスティテュートが借りている面積は900 m2に及ぶ。そのうち一階の600 m2が演劇、パフォーマンス、展示などに使える多目的空間であり、ここを舞台として最初に使ったこけら落しは、2019年4月25~27日、パリのテアトル・ブッフ・デュ・ノール座による、ピーター・ブルック演出の『囚人』だった。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 『水の駅』はこの多目的空間で上演された。釜山市民ホールやももちパレスホールと違って、かなり傾斜をつけた階段状の可動式客席に坐った観客は全員が、フロアの延長であるステージを、上から見おろすかたちになった。感染症対策で入場者数は通常の半数に抑えられていたが、150人以上はいただろう。この作品は、「2メートルを5分で歩く」という原作者の指示を守れば、劇場の広さや演出家の指定するパフォーマンス空間の大きさによって上演時間は延び縮みするが、福岡でほぼきっかり150分だったものが、ヴロツワフではそれよりさらに10分以上延びていたのではないだろうか。

 同じ演出家の『水の駅』を6回も観ながら、毎回想うことは違う。もちろん毎回変わらぬ感慨もある。ピェカルニャの客席で私が二晩とも考えていたのは、他人の生きる時間をそのまま自分も生きることの難しさと価値、そして演者たちの視線の行方と表情についてだった。釜山の初演では舞台全体の絵画的、造形的な美などと思ったが、もうそういう言葉で考えることは、私自身しなくなっていた。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 55ズウォティ、つまり約1700円の入場料を払って演劇を「鑑賞する」という、それなりに強制力のはたらく枠組みの中で、160分間、目的や意味を特定できない他人の動きを注視しつづけることの困難。同じ空間にいる観客の緊張や困惑を、釜山でよりも福岡でよりも、私は身近に感じていたような気がする。反応が気になったことは確かだし、知り合いが少なくなかったこともあるだろうし、客席の造りがそう作用したのかもしれなかった。パントマイムのような、ミメーシスの妙を味わう要素は、この作品にはほとんどない。眩しかったり、異様だったりという、個々の役者の個性に見入るべきものでもない。幕が下り、客席の知り合いと言葉を交わしてみると、案の定――マウゴジャータ・セミルを除けば――みな必死で「解釈」しよう、「理解」しようと、意味を探しながら観ていたのだったが、全体で九つの場景、のべ20人の役者が放った視線、描いた軌跡、動作の記憶は、結局散り散りに空中分解し、言葉らしい言葉はほとんど残らない――ということは見てとれた。それは想定されたことだった。

 160分を単純に九つの場景で割れば18分弱になる。わずか18分でも気の遠くなるような時間に感じられるのは、単に足どりや身ぶりがゆっくりだからなのではなく、演者が自分の生を凝縮して生きるというようなことがそこで起こっているからだろう。彼女、彼を中心に強力なエネルギーの「場」が形成されているからこそ、私たちはその「場」に反応する。目的や意味の欠落した、苛立たしいほどに緩慢な他人の動きでありながら、観客がそれを無視できず、息を呑んでみまもらざるを得ないのは、その動きにその他者の生が横溢しているからで、かりにそれが18分間だとすれば、私たちはその他者が渾身の力をこめて生きる18分間を同時に自分も生きなければならず、当然それは困難なのである。私たちがどこまで他者の生を受け入れられるのか、寛容であり得るのか、18分×9場の160分は、それが試される時間だった。自分とかかわりのない、自分の生と交叉することのない生を生きる他者が生きる時間を、自分も同じように生きることはそう簡単ではないだろう。キム・セイルの『水の駅』は、私たちのそうした感受性や能力を見る、試金石であるようにも思えた。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 また、今回あらためて目を瞠ったのは、演者たちの視線と表情だった。明らかにそれらは制御されていた。ステージを降りた彼らがまったく異なる、別人の顔を見せるのを、個人的に目のあたりにしたために、なおのこと私はその思いを強くしたのかもしれないが‥‥。退場してゆく人物、次に登場する人物に向けられることもあるが、視線と顔はさまざまな方向に向けられた。それらのヴェクトルは安易な解釈を打ち壊すに充分なほど全方位に向かい、その瞬間瞬間多くの意味を生みながら、全体の統一的な意味づけを拒んでいたように思う。そして表情は、わずかな角度で泣き笑いする能面のようでもあり、それもまた物語を否定した。

InlanDimensions International Arts Festival 2022, photo by Tobiasz Papuczys

 2022年11月17日、18日に福岡で上演される『水の駅』は、また違うこと、新たなことを私に考えさえるかもしれないが、それでいいのだと思う。そうして何度も観ることができるということ自体、傑作の証ではないだろうか。転形劇場のように、原作者みずからが育て、長年ともに演じた一つの家族にも似た劇団とは異なり、オーディションで選ばれた各地の俳優たちを相手に、伝染病や国境、言語の違いに起因するさまざまな障碍にもかかわらず、比較的短期間で、キム・セイルが達成する驚くべき仕事の内実は、門外漢の私には理解を絶する、神秘的ともいえるものだが、魔術のようなそれも、太田省吾の作品の堅固な構造があってこそ可能になっているのだということは私にもわかる。

(2022年10月25日記。29日一部訂正)

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